実家からほぼ徒歩圏内の「国史跡高麗寺跡こまでらあと」は、小学生の時から郷土の誇るべき史跡として習っていたところです。
でも、車でその横の道を通り抜けてもわざわざ立ち寄ったことがなく、実は今回初めて史跡の中に入りました。
自然豊かで、人がいなくて、わんこのお散歩ができて、でもちょっと歴史を感じることができる場所。
4月の初めに行った恭仁京跡の長閑さがすっかり気に入って、その近くの高麗寺跡も訪れようと思っていたのです。
上の写真↑の高麗寺の石碑の横の階段を上ると、塔基壇に↓
この塔心礎は非常に精巧な石製のレプリカだそうで、実物は、仏舎利を収める舎利孔が側面にうがたれる特異な構造で、地中に埋め戻されているということです。
金堂の基壇を横から見たところ↑
外装は瓦積みで、下段に引用した木津川市のサイトにも『塔、金堂、講堂は整美な瓦積基壇を外装としており』とあります。
木津川市教育委員会による史跡の復元整備工事では、塔跡と金堂跡の瓦積み基壇は、古代瓦の質感の再現にこだわった瓦が丁寧に積み重ねられ、地元の小中学生と地域住民が瓦積み作業に参加したそうです。基壇の高さを実感してみてください↑向こうには講堂跡が見えます。
のどかな景色に癒され、わんこの喜んでいる姿に私たちもほっこり。
木津川市のサイトより引用ですが
田園のなかにたたずむ高麗寺跡は、7世紀初頭(飛鳥時代)に創建された国内最古の寺院跡のひとつで、相楽七郷中の大狛郷に属し、高句麗からの渡来氏族狛(高麗)氏の氏寺として創建されたと考えられています。
高麗寺は、文献資料から天平年中(奈良時代)に存在したことが「日本霊異記」に記され、その他「今昔物語集」にも説話が収録されています。
伽藍は、木津川を見下ろす台地上に南面して立地し、西に金堂、東に塔を持つ法起寺式の配置となります。塔、金堂、講堂は整美な瓦積基壇を外装としており、講堂の両翼から伸びた回廊は塔、金堂を囲んで中門に接続し、寺域は一辺が約200メートルの規模であったと考えられます。
また、平成17年の発掘調査では、塔相輪上部に取り付けられた水煙と呼ばれる飾りを心柱に取り付ける円筒形の金具・擦管さっかんが見つかりました。
田園のなかにたたずむ高麗寺跡は、7世紀初頭(飛鳥時代)に創建された国内最古の寺院跡のひとつで、相楽七郷中の大狛郷に属し、高句麗からの渡来氏族狛(高麗)氏の氏寺として創建されたと考えられています。
高麗寺は、文献資料から天平年中(奈良時代)に存在したことが「日本霊異記」に記され、その他「今昔物語集」にも説話が収録されています。
伽藍は、木津川を見下ろす台地上に南面して立地し、西に金堂、東に塔を持つ法起寺式の配置となります。塔、金堂、講堂は整美な瓦積基壇を外装としており、講堂の両翼から伸びた回廊は塔、金堂を囲んで中門に接続し、寺域は一辺が約200メートルの規模であったと考えられます。
また、平成17年の発掘調査では、塔相輪上部に取り付けられた水煙と呼ばれる飾りを心柱に取り付ける円筒形の金具・擦管さっかんが見つかりました。
近くには府立山城郷土資料館があり、ここに出土遺物が常設展示されています。こちらも拝見したかったのですが、京都府に緊急事態宣言が発出中だったので閉館していました。
残念ですが、またそのために訪れたいと思います。
残念ですが、またそのために訪れたいと思います。