5/13に行われた大阪での公演に続いて、5/20は東京の国立劇場で『東大寺開山良弁僧正 千二百五十年御遠忌記念「東大寺 修二会の声明」
特別公演』が開催されました。
プログラムの内容は東京と大阪では少し違って、東京では午前と午後の二部構成(入替制)で半夜の悔過作法が入ります。半夜の時導師は清水師、五体は平岡師。その他の時の配役は大阪と同じでした。舞台が始まる導入部分も違っていて、東京では舞台に下ろされたスクリーンに、初夜上堂のお松明が登廊を上がっていき、お松明に導かれた練行衆が二月堂に入堂するまでの様子が動画で映し出されます。
普段、私たちがお松明を見る位置からの始まりで心憎い演出でした。
普段、私たちがお松明を見る位置からの始まりで心憎い演出でした。
また、大阪では観客の見る位置が、休憩を挟んで前半は東の局から、後半は西の局からでしたが、東京では何度か途中で舞台が廻り、見せ場・見せ場でいい演出を見せてくださいました。→初夜の五体の途中で舞台が廻り、佐保山師の五体投地を拝見することができたのです。
以前に局で拝見した佐保山師の五体が大変美しいという印象を持っていたので、もう一度しっかりと拝見できたのは有難いことでした。その時は滞空時間が長いという印象を持ちましたが、今回よく見ていると、上げ足を高く高く水平に上げてそのまま停止し、その時間が長くて軸足がぶれない、そしてすっと身体を落として五体板に打ちつける・・・練行衆の所作の感想を述べるような立場ではありませんが、大阪で拝見叶わなかったものが回り舞台のおかげで目にすることができ、心の中で拍手でした。(ただ、半夜・後夜・晨朝の五体の時は舞台は回らず、観客からは見えませんでしたが)
今回の公演では、局からは見えにくい場面などがしっかり見ることができるために、大阪で見落としてしまった場面を東京で確認しようと、オペラグラス持参で気合を入れての鑑賞、まさに「ガン見」をしておりました。
その確認したかった場面は、初夜と後夜で堂司が華籠けこを配る時の様子で、初夜では後ろ向きに座って渡す。下座の二人には両手を使って同時に渡す。その時の手は「伏せ手」。後夜では立ったまま一人ずつに配る。・・・という場面です。
この華籠は大導師と時導師には配られませんが、配られない時導師になる人も受け手をして、大阪公演ではその手をくしゅくしゅとしている様子を目にしたのです。
これはお作法なのかどうなんだろうと帰宅後に調べても本には載ってなくて、ひょっとしてこれは「え?私にはないの?」「え?次の時導師なの?」というような時導師になる人のユーモアなのかなと思ったり。(実際そのようなニュアンスを感じたのです)
その場面が東京でもあるかしらとちょっと期待していたのですが、私の席からはその場面は見えませんでした。
その確認したかった場面は、初夜と後夜で堂司が華籠けこを配る時の様子で、初夜では後ろ向きに座って渡す。下座の二人には両手を使って同時に渡す。その時の手は「伏せ手」。後夜では立ったまま一人ずつに配る。・・・という場面です。
この華籠は大導師と時導師には配られませんが、配られない時導師になる人も受け手をして、大阪公演ではその手をくしゅくしゅとしている様子を目にしたのです。
これはお作法なのかどうなんだろうと帰宅後に調べても本には載ってなくて、ひょっとしてこれは「え?私にはないの?」「え?次の時導師なの?」というような時導師になる人のユーモアなのかなと思ったり。(実際そのようなニュアンスを感じたのです)
その場面が東京でもあるかしらとちょっと期待していたのですが、私の席からはその場面は見えませんでした。
もう一つ、神名帳読みあげ中に処世界が何かをもって大導師のところに行って手洗いを願う場面での、「何か」(ひとつまみのハゼを懐紙に包むところ)もはっきりと見ることができました。
大阪公演でも感心したのですが、堂司は細々とした所作が多く、まさに法会全般に気を配る進行役なのだとあらためて思いました。
座席の位置によって今回初めて知った場面もあります。
「咒師作法」で咒師が自席を立った時に、衆之一が咒師の席に座って何か手引きのようなものに目を通している場面・・・後ほど修二会に詳しい方に教えていただきましたが、この時の衆之一は咒師の補佐だそうで、そのために手引きを咒師の席で見ながら確認しているらしいのです。
「咒師作法」で咒師が自席を立った時に、衆之一が咒師の席に座って何か手引きのようなものに目を通している場面・・・後ほど修二会に詳しい方に教えていただきましたが、この時の衆之一は咒師の補佐だそうで、そのために手引きを咒師の席で見ながら確認しているらしいのです。
・・・・こんなふうに、見ることばかりに集中していた訳ですが、それでも大阪公演で初めて見たときよりは余裕もあるので、耳からのお声明も集中して拝聴することができました。
称名悔過の時導師とガワの掛け合いに、ガワの下座の若い方たちの数珠を揉み上がる時の腕が高くまっすぐに上がる様子にも、練行衆の皆さんが心を一つにして祈ることの力を感じます。
あと、個人的には大呪願のフシにも惹きこまれます。
称名悔過の時導師とガワの掛け合いに、ガワの下座の若い方たちの数珠を揉み上がる時の腕が高くまっすぐに上がる様子にも、練行衆の皆さんが心を一つにして祈ることの力を感じます。
あと、個人的には大呪願のフシにも惹きこまれます。
長時間に及ぶ行法も後夜から晨朝へ・・・
3月の本行14日間に加えて、5月の大阪・東京の2公演は単なる公演ではなく、ここにきていつの間にか二月堂の局で聴聞している気持ちになって、これでいよいよ今年の修二会も終わるのかと、とても寂しく名残惜しい気持になって不思議でした。
局で聴聞しているときは「粥食咒願」の声と共に、練行衆の下堂を見るために外に出るので、会場の座席で最後まで聴聞できて有難いことでした。
橋村別当の始まりのご挨拶で、修二会は悔過法要であり「祈る」ことについて触れておられましたが、大阪東京と2回に渡って修二会の構成に触れ、祈りの法会・修二会の入り口に立つことができたような気がします。公演の開催に心から感謝申し上げます。
最後になりましたが、会場では奈良倶楽部のお客様方や二月堂でお会いする方々にもたくさんお目にかかることができ嬉しかったです。ありがとうございました。
(このブログの文章は、自分が見ることができた場面についてのあくまでも個人的な感想です。長文にお付き合いいただきありがとうございました。)