2021年9月6日月曜日

「早朝散歩」のこぼれ話~その①東大寺境内に女子学院?

先日開催した「早朝散歩」の中で、東大寺境内をご案内するコースや案内内容を考える際に、手持ちの東大寺関連の本を何冊か読み、その中で知らなかったことが浮かび上がってきました。

東大寺に関する本の中で、上司海雲師の「東大寺」を読むと、「東大寺学園」の中に女子学院があったという記述があります。
でもそれが、筒井寛秀師の「誰も知らない東大寺」の中の「東大寺学園」についてのページには、女子学院について触れられていません。

上司海雲師の「東大寺」は、戦前に書かれたものを昭和48年に再版されて、その時に補った文章が[ ]で括られています。
写真がわかりずらいですが、[ ]の中には

[学校は終戦時には昼間の青々中学ができ、それが全日制の中高に発展、金鐘中学は定時制高校となり、さらにみどり幼稚園と専修女学校(後の女子学院)を統合して東大寺学園となったが、定時制高校と女子学院が赤字つづきとの理由で一昨年から両校の入学願書を廃止しました。いかん至極です。]と書かれています。

これは初耳でした。
そして、塔頭のことが書かれたページで、北林院のところの狭川宗玄長老の役職が(女子学院長)とあります。↓

女子学院は、私が奈良市内で中学時代を過ごして昭和44~46年に存在していたことになりますが、全く知りませんでした。
高校受験を控えて奈良・京都・大阪の私立高校についてはおよそ知っていたつもりでしたが、東大寺女子学院は聞いたことがなく、この本の記述を読んだ時も、まだ半信半疑でした。

東大寺関連の資料を探して読んでいた頃に、ご近所の「ゲストハウスはるきたまち」(元魚佐旅館)の金田氏よりいただいていた地図にふと目を通すと
南大門の内側、まさに東大寺学園(今の東大寺ミュージアム)があった辺りに「高等女学校」の文字を発見!
ということは、これが女子学院のこと?と思ったのですが、この地図は明治41年のもの。明治時代からあったのかどうか?
・・・よくわからないまま、「早朝散歩」の当日を迎えましたので、とりあえずこの件は当日の案内から省くことにして、それから「奈良県立図書情報館」で資料を探してみました。

図書館司書の方に尋ねたりして、探していただいたのが「華萌ゆ」という、東大寺学園創立75周年記念誌です。
そこに、14ページにわたって女子学院についての資料が掲載されていました。その一部ですが↓
沿革には、昭和3年開校・昭和50年閉校とあります。
昭和46年に生徒募集停止決定とあります。その年は私が中3の時で、すでに募集停止していたから知らなかったわけですね。
歴代院長・校長の中には、清水公照師や狭川明俊師、宗玄長老のお名前も!

さて、そうなりますと明治41年の「高等女子学校」とは一体何?となりまして、そんな一連のことを、奈良倶楽部リピーターのKさんとお話しておりましたら、デジタル化された奈良市史に、こんな記述★(14ページ目)がある↓と教えていただきました。
一部抜粋してみます。
明治29年に奈良県高等女学校が鍋屋町に開設。
明治30年に水門に移転。
明治37年に県立奈良高等女学校と改称。
明治44年奈良女子高等師範学校附属高等女学校に吸収され廃校。

ということで、明治41年製の地図↓に載っていたのは、東大寺女子学院ではなく、水門にあった県立奈良高等女学校ということになるのですね。
それで、水門(今の依水園や入江泰吉旧居のある町内)のどこかなと推察して、「東大寺福祉療育病院」(旧「東大寺整肢園」昭和30年開設)のところかなとも思ったのですが、こちらは水門町ではなく雑司町で、筒井寛秀師「誰も知らない東大寺」には、ここはかつて新禅院という塔頭寺院があったところ(明治8年に取り壊された)とあるので、違うかなと思ったり。

ひょんなきっかけでその存在を知った「東大寺女子学院」については、およそのことがわかりましたが、明治41年の地図に記載の高等女学校の立地箇所については、もう少し調べてみたいと思っています。
(どなたかご存知の方がいらっしゃいましたらご教示下さい!)

8/29の早朝散歩が終わって一週間、こんなことを調べて過ごしていましたが、知らなかったことを知っていくのは楽しいことですね。
そして、知れば知るほど面白い東大寺境内です。
10/3開催「やまとびとツアーズ」での早朝散歩ご案内でも、もう少し資料から深めてご案内したいところがありますので、お楽しみにして下さいね。

追記>>
その後、東大寺の古地図を製作されている絵図屋の筒井さんより、昭和4年と12年版のものを画像でいただきました。
昭和4年製には女子学院
昭和12年製には金鐘中学の文字が見えます。
また、フェイスブックに投稿した記事のコメントより、東大寺女子学院は今の東大寺幼稚園のところにあったそうです。