2019年10月5日土曜日

転害会「御鳳輦」60数年ぶりの渡御

令和元年の「転害会」は記念すべき祭礼となりました。
2年前に新調された「御鳳輦ごほうれん」が、昨年は雨の為に渡御が中止になり、今年初めて、60数年ぶりに転害門までお渡りされるのです。
「御鳳輦ごほうれん」については、文中の所々で説明を記載しています。
氏子の一人としては、その記念すべきお渡りを一目拝したいと、出発時間に合わせて鳥居の前にてカメラ片手に待機して、まだかまだかと待ちわびること半時間。
30分ほど遅れて出発した「御鳳輦」。
参道の向こうから雅楽の音色がかすかに聞こえてきました。

ご奉仕の皆さんに担がれて、鳥居を出て大仏殿前へ進みます。
目の前を通って行く「御鳳輦」。美しいです!
「手向山八幡宮例大祭転害会」フェイスブックページに、この「御鳳輦」について詳しい説明が記載されていますので、そちらから引用させていただきます。(引用文は青字で)
高さ約2.4m、幅約1.2m。黒漆塗りの骨組みが紫の錦に包まれ、天盤には金色の鳳凰が乗っていて、「御鳳輦」の名前はこの鳳凰に由来しています。「御」はお乗りになる天皇や神様を意味し、「鳳」は雄の瑞鳥で、「輦」はてぐるまと訓み、肩にのせて運ぶ乗り物を指します。 曽ては天皇の公式な乗り物だったことから天下の一番格式の高い乗り物に当たります。
引用文からこの「御鳳輦」が大変格式高いものであるとわかります。
徳治元年(1306)の後宇多上皇の八幡宮神輿院宣(いんぜん。上皇の命により、院庁の役人が出す公文書)によりますと、『天子の乗輿と相異せず、正体(御鏡)を奉懸し、御帳は紫錦とすべし。』神輿の仕様について紫の錦と規定されています。
四方の垂幕、屋根の表、前後の襖に紫の錦が使われていることは錦貼神輿の別名を持っている所以です。
前後の襖!襖というのですね。

お渡りは御幣を先頭に太鼓、鉾、楽人、御幣、お香(フローリアン神主さんが持ってらっしゃる)、神輿(御鳳輦)、台座、手向山八幡宮宮司、神職、東大寺僧侶、巫女、関係者という順で進まれて

大仏殿前に到着しましたら
一旦「御鳳輦」をおろして
手向山八幡宮宮司・東大寺僧侶が参拝され、雅楽の奉納。
手向山八幡宮御鳳輦とは天平勝宝元年(749)に東大寺大仏鋳造にあたり宇佐より八幡大神を勧請した折、紫の神輿をもって奈良の都にお迎えしたことに始まると言われております。 
 再び、転害門へとお渡りが進み始めました。

ご奉仕される方の中に見知ったお顔が!
担ぎ手は大仏殿で入れ替わったそうですが
またまた大仏殿西側から正倉院正面へとゆっくり進んで行きます。
皇宮警察を左折して大仏池の北側を進んで行き、この後、芝生の所で小休止。担ぐのは、やはり相当重いのでしょうか。
私はお先に転害門へ廻って、「御鳳輦」の到着を待つことに。
大仏造立の折、宇佐からお迎えした八幡大神が転害門をお通りになり、東大寺鎮守八幡宮として鎮座しました。それ故に転害門が八幡宮の御祭禮の御旅所とされ、床には神輿を据える小礎四個があります。
「御鳳輦」が転害門に入って
御旅所におさまった瞬間、何ともいえない感動でした。
床には神輿を据える小礎四個」↑そこにちゃんと置かれています。
転害門での神事が始まるまでに、私は、ここでちょっと勧進所へ。
八幡殿「僧形八幡神坐像」・阿弥陀堂「五劫思惟阿弥陀如来坐像」・公慶堂「公慶上人坐像」の特別開扉にお参りに行って、戻ってきましたら神事がおわり舞楽奉納が始まったところでした。
『右方の抜頭』しっかりと舞ってらっしゃって感じ入りました。
最後に記念撮影をされているところを横からパチリ。
汗ばむほどではなかったですが、陽射しの強い一日でしたので、ご奉仕の皆さまも大変だったことと思います。大変お疲れ様でした。
秋晴れの青空の下、60数年ぶりに復活した御鳳輦渡御。
美しい「御鳳輦」を間近に拝見できたことは大変有難く、地元のたくさんの方にお会いしましたが、皆さん喜びに溢れた誇らしい気持ちでご覧になってらっしゃいました。
ところで、元々の「御鳳輦」は平安時代の作とされ、最も新しい修理の記録は正長元年(1428年)だそうです。そのため、老朽化が激しく、昭和35年を御渡りの最後として退役し、その後は御鳳輦渡御のない転害会が斎行されてきたのです。
上にも書きましたが、「手向山八幡宮例大祭転害会」フェイスブックページに、「御鳳輦」新調の工程が詳しくアップされていますので、ご覧ください。
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昨晩の宵宮の様子はインスタグラムにアップしています→
追記メモ>>
転害門からの御鳳輦お還りは、道中で勧進所に寄られたそうです。