2020年8月4日火曜日

奈良きたまちに藤原不比等公の霊廟

不比等の命日である8月3日に、平安時代の摂関家藤原氏の先祖である藤原不比等という存在と、不比等ときたまちの関わりについてのお話を、ことのまあかりオンライン講座「不比等のまなざし〜摂関家藤原氏と奈良きたまち〜」で受講しました。
講師の先生は奈良女子大学・前川佳代先生。
講座の前は、不比等ときたまちの関係ってあまりピンとこなかったのですが、史料をもとに、不比等は「佐保山椎岡さほやまならおか」で火葬され、平安時代のある時期に不比等の霊廟となった可能性があるということで、ではその「佐保山椎岡」がどこになるのかということから講座は始まりました。
最初にその不比等の霊廟と伝わる「佐保山椎岡」から見える奈良の風景の写真で出てきて、「きたまちの人ならここがどこかわかりますよね?」という先生の言葉に「はーい、わかりまーす」とパソコンの前で手を挙げておりましたが、今日、もう一度行って見てきました。
前川先生が写真を撮られたのは、この柵の中からだそうで、ちょうど柵の扉が開いていて中に入れたようですが、今日は真夏の草が伸びすぎて足元も見えないくらいだったので、中には入らず扉の横から、大仏殿や御蓋山、若草山を望みました。
ちなみに、この小高い山は「聖武天皇陵飛び地ろ号」です。
視点をもう少し右へ向けると奈良県庁や興福寺五重塔も見えます。
この写真↓の左手(東側)が「聖武天皇陵飛び地ろ号」で
右手(西側)が「聖武天皇陵飛び地い号」です。
「聖武天皇陵飛び地い号」の小高い丘には木々がうっそうと茂って風景も見えないようだと、前川先生はおっしゃってましたが、7年前にここを訪れた時にはもっと眺望できたので(7年前のブログ過去記事に写真あり)、ちょっと驚いています。
飛び地「い号」と「ろ号」の間の道を南に向かって撮影↑
その道を下って、北に向かって撮影↑
このまま、東に行くと聖武天皇陵に連なっていきます。
そして、鴻池のスターバックスから↑「い号」と「ろ号」も見ることができます。この写真の「ろ号」の前に見える建物が中央武道場(ならでん武道場)で、その南側に「藤原不比等顕彰碑」があります。
正面↑、右側面↓

裏側↑、左側面↓
この顕彰碑は、昭和54(1979)年9月9日に建立されとあり、帰宅して調べてみると、当時奈良市長だった鍵田忠三郎氏が建立されたようです。(ちなみに鍵田忠三郎翁宅は奈良倶楽部の隣家です。)
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鴻池から聖武天皇陵、多門町を抜けるこの辺りは、春先に自粛休館していた頃に、犬の散歩でよく歩いたコースです。
今日、撮影したところと同じ場所で撮った写真を見ると、草の背丈が違うから大仏殿も埋もれていませんし、前川先生のおっしゃる「御蓋山が三角形に美しく」見えます。(6/5撮影↑↓)
それにしても、この飛び地が藤原不比等公の「椎岡廟」だったとは!
何度か通っていても知らずにいて、今回教えていただけて有難いことでした。
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講座で教えていただいた内容は、まだまだすごくて・・・。
「椎岡廟」のふもとに広がる奈良きたまちには、平安時代に摂関家藤原氏の氏の長者が滞在する佐保殿があり、前川先生は、奈良女子大学構内遺跡がその故地であると考察されます。
椎岡に眠る不比等がみつめるものは不比等の子孫・摂関家藤原氏。
平安時代の摂関家藤原氏(氏長者、北家藤原氏)は、その正統性を不比等に求め、威厳を創出したのでは考察されています。
平安時代の「きたまちエリア」には、摂関家との関わり深い場所が他にもあり、また後日にそちらの方もレポしたいと思います。
ということで、~奈良の旅は、不比等がみつめる、奈良きたまちエリアへ~どうぞお越しくださいませ!