東大寺境内整備事業の一環として進められている 「講堂・三面僧坊跡」の遺構と景観の保全。
僧坊跡を流れる小川からの水によって基壇の土が流され、露出している礎石もあるため、護岸整備工事が2021年11月より行われています。
護岸工事前に行われた発掘調査では、奈良時代の創建当時の図面(正倉院に残る「殿堂平面図」)通りの場所に礎石が見つかり、古文書の記録通り3度の焼失がわかる火災跡が礎石や地層から見つかっています。
いただいた資料↓
礎石12の横の「地覆」の上には壁か扉があったと考えられ、赤くなっているのは焼けた跡である。↓
礎石11は、凝灰岩製で四角い形。その上に丸く黒くなっているのが柱の焼けた跡(炭化した跡)↓
礎石10の右横に変わった形の礎石が見えるのは柱を受ける台で、回廊の跡では?と推測されています。↓
礎石9の西横の凝灰岩の石列は扉か塀で、よく焼けていて2回以上の火災の確認ができる。↓
礎石7を支える石が見え、地面が削られ礎石が出て来てる。↓
礎石4は小さく、川の流れで北にずれている。↓
礎石1の西側(写真↓では左側)に排水溝を確認。
最後の火災で焼け落ちた瓦が埋まっている。↓
礎石1の上部の方には、3度の火災の跡がよくわかる色の違う地層が確認できる。↓
礎石1~5が東西に並んでいる北側エリア↓
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では、現地で説明されたことをメモしておきます。
礎石10の右横に変わった形の礎石が見えるのは柱を受ける台で、回廊の跡では?と推測されています。↓
最後の火災で焼け落ちた瓦が埋まっている。↓
礎石1の上部の方には、3度の火災の跡がよくわかる色の違う地層が確認できる。↓
↑人の身長から見て、この辺りの今の地表は、礎石に約1mほど土が堆積していることがわかります。
三面僧坊の礎石より1m高くなった現代の標高は102mだそうで、今も地表に礎石が見える講堂跡の標高は101m。
つまり、三面僧坊の地下の礎石と講堂跡の地表の礎石の標高は同じということで、今いる三面僧坊は、目と鼻の先の講堂跡より1mも高いということに驚きました。
三面僧坊の礎石より1m高くなった現代の標高は102mだそうで、今も地表に礎石が見える講堂跡の標高は101m。
つまり、三面僧坊の地下の礎石と講堂跡の地表の礎石の標高は同じということで、今いる三面僧坊は、目と鼻の先の講堂跡より1mも高いということに驚きました。
「おろし皿」の欠片も
創建当時に書かれた「殿堂平面図」によると、講堂の大きさは幅54m、奥行き約28・5mの大きな建物だったようです。
講堂と回廊でつながった僧坊は、幅221m、奥行き126mのさらに巨大な建物とされ、高僧が住む内側の大坊と、高僧の身の回りの世話をする僧が住む外側の中坊に分かれていて、1000人以上が暮らしていたそうです。
講堂と回廊でつながった僧坊は、幅221m、奥行き126mのさらに巨大な建物とされ、高僧が住む内側の大坊と、高僧の身の回りの世話をする僧が住む外側の中坊に分かれていて、1000人以上が暮らしていたそうです。
講堂・三面僧坊は、917年(失火)→再建、1180年(平家焼き討ち)→再建、1508年(失火)の3度の火災記録が残されています。
今回の発掘で、3種類の焼土からなる地層も見つかり、僧坊が3度焼失したことが改めて確認できたことを見せていただきました。
今回の発掘で、3種類の焼土からなる地層も見つかり、僧坊が3度焼失したことが改めて確認できたことを見せていただきました。
この辺りは、奈良倶楽部から一番近い東大寺境内でもありよく歩くところなので、整備工事の進捗具合もよく目にしていました。
傍から見て、新たに作られた水路が風景に馴染めないように感じたり、樹木が伐採されるたびに淋しく思ったりしていましたが、木の根や小川の流水からの遺構の浸食の酷さを具体的に知ることができ、遺構を後世に残していく大切さを理解することができました。
傍から見て、新たに作られた水路が風景に馴染めないように感じたり、樹木が伐採されるたびに淋しく思ったりしていましたが、木の根や小川の流水からの遺構の浸食の酷さを具体的に知ることができ、遺構を後世に残していく大切さを理解することができました。
今回は三面僧坊の東側の発掘調査でしたが、西側あたりもいずれはされるのでしょうか?新たな発見を知ることができればいいですね。
おまけの画像
当日、朝のお散歩風景でした。