2023年11月29日水曜日

「興福院特別拝観」へ*

11/24~11/26に開催されていた「興福院特別拝観」。
今回は、アライグマによる被害が大きい客殿檜皮葺屋根の全面修理勧進のため、茶室エリアが初公開されるということもあって、最終日に行ってきました。

大門までの参道沿い、モミジが真っ赤に色づいて、4年前に伺った時とはまた違った風情に心躍ります。
大門から中門、そして客殿へ。

客殿内にはいたるところに野の花が生けてあり、前回もでしたが、それを拝見するのもまた楽しみでした。






客殿から本堂に向かう渡り廊下から、遠州好みのお庭を拝見。
写真右手の客殿の檜皮葺屋根がアライグマの被害を受けています。
渡り廊下途中で、代々の徳川将軍の位牌をお祀りしている御霊屋みたまやの方へ。ここから、興福寺の五重塔を望むことができました。
奈良時代造立の本尊阿弥陀三尊像を祀る本堂
扁額は小堀遠州の手によるもの。
モミジの紅葉がちょうど見頃で、本堂の瓦屋根を背景に↑
客殿の檜皮葺屋根を背景に↓
本堂を出て、今回は茶室エリアにも入れました。(別途要拝観料)
茶室エリアは外観もすべて撮影禁止でしたので、いただいたパンフレットの解説から抜粋します。(自分メモで)
お茶室は「長闇堂」「龍松庵」「雲笑亭」の三茶室が並んであり、外側からの見学ですが、「龍松庵」「雲笑亭」は内部を覗き見ることができました。
「龍松庵」は、公慶上人の茶室であったものが明治初年に民間に流れたのち、昭和2年の「長闇堂」復元に際して寄付移築されたもの。亭額「龍松」は公慶上人の筆によるもの。

「長闇堂」は内部拝観はできませんでしたが、天井には公慶上人の「南都大仏修復勧進帳」が貼ってあり、写真が提示されていました。
「長闇堂」の額は、圓照寺門跡でもあった伏見宮文秀女王ご染筆です。文秀女王の筆は法華寺でも拝見したことがありますが、力強くダイナミックで、見ていてすーっとします。(私のお稽古しているお花のお家元が圓照寺門跡という関係もあって気になりました)

「長闇堂」の由来について、以下、パンフから抜粋します。
鎌倉時代に東大寺の復興に尽力した大勧進重源上人の御影堂が改修される際に、茶人・久保権大輔利世(長闇堂)がその古材を譲り受けて自宅庭先に庵を結んだといいます。その方丈七尺の七尺堂は利世の没後 転々とし、やがて公慶上人に寄進されます。
江戸時代の大勧進公慶上人は重源上人ゆかりの古材をたいへん喜ばれたのですが、下男がそれと知らず薪代わりに火にくべてしまい再建の機会をなくしました。

久保権大輔利世(長闇堂)は小堀遠州に引き立てられ、興福院再興に関わる多忙な遠州の代わりに復興の作事に当たっていました。
七尺堂に長闇の二字を送った遠州は、鴨長明と同じ方丈を好むなら「鴨長明は物知りで智が明らかで<明>の字に相応しいが、利世は物を知らず智に暗いから、長明の長の字を借りて<闇>とするがいい」という謂れがあるといいます。

大正時代になって長闇堂人気が俄かに高まり、長闇堂復元の動きが起こります。復元の地に興福院が選ばれたのは、利世や公慶上人が興福院と関りが深かったことによります。興福院第四世は公慶上人の実姉であり、公慶上人が奉じた釈迦如来坐像が伝わっています。

公慶上人が生駒高山の出身ということもあって、東大寺の法要でお練がある時に(聖武天皇祭など)高山の方々が僧兵姿でお練りに参列されるそうで、その行きと帰りには興福院に立ち寄られるということです。(案内係をされていた旧知のSさんに教えていただきました)

この茶室エリアに入ってすぐ左手に利世(長闇堂)の墓碑があります。大正時代にこの墓碑を空海寺から発見した顛末は何とも不思議な話です。↓
そして、その墓碑の隣には、江戸時代の念仏行者として名高い徳本上人の名号碑があり、独特の字で「南無阿弥陀仏」と刻まれています。
これもSさんに教えてもらったのですが、この名号碑の後ろには「眉間寺」の文字が見えます。
「眉間寺」!聖武天皇陵の傍にあって、栄えながらも明治に廃寺になったお寺の銘が刻まれた碑にちょっとぞわぞわとしました。
徳本上人が訪れた地に建つ名号碑は全国に千基以上もあるそうで、この独特の字体が描かれた碑を訪ね歩くのも面白いことでしょうね。

こちらは拝観時にいただいたクリアファイルで、江戸中期の刺繍を代表する「興福院江戸掛袱紗」がデザインされています。
アライグマのトートバックは松田大児さんイラストで2000円。修復費用に充てられます。

長々と書き綴りましたが、次回も特別拝観がありましたら、また訪れてみたいものです。
最後に参道で撮った一枚を。