11月22日
「東大寺講堂・三面僧坊発掘調査現地説明会」に行ってきました。
上の写真↑の手前が「三面僧坊跡」で、こちらの発掘調査現地説明会は昨年9月に行われ(ブログ記事
★)、今回は大仏殿寄りの「講堂跡」の南側を発掘調査された説明会です。
講堂基壇南面(写真のオレンジ色)が発掘調査されたところ↑↓
説明会でいただいた資料から・・・発掘調査でわかったことなど。
・講堂は2度建て替えられたが、奈良時代から礎石はかわっていない。
・礎石は動かされた形跡がないことから、創建当初と同じ位置に再建を繰り返した。(記録によると917年の火災、1180年の平氏の焼き打ち後にそれぞれ再建されたが、1508年に焼失後は再建されなかった)
・講堂の基壇の大きさは東西約61m、南北約36mで大仏殿に次ぐ規模。
・礎石69個から建物の規模は東西54m、南北29mと考えられている。
・基壇の高さは約1.5mで、南面には幅約45mの階段があった。
・東西の礎石11間のうち9間に扉がついていること、この幅が階段と同じである。
写真内の文字が見えにくいですが↑奥(写真上部)には、江戸時代の大仏殿の瓦を明治になって捨てた様子がわかります。
右下の方には礎石を据え付ける穴も見えます。
階段の盛り土が確認されたところ↑
この盛り土を検出したところから、階段の存在とその規模(東西9間分)がわかった。
写真の真ん中に赤色の石が見えますが↑これが火災で焼けた凝灰岩。
創建当時の基壇外装には凝灰岩が使用され、鎌倉時代の再々建時には外装の石材は花崗岩に変更されたようです。
奈良の二上山で採れた凝灰岩が使われているそうです。
基壇南側には平安時代の再建時に据えられた石列が見つかる。
屋根からの雨水を処理する雨落ち溝のほか、僧坊と講堂を結ぶ東西の廊下「軒廊
こんろう」の遺構も確認でき、軒廊や階段の構造は、正倉院に伝わる東大寺境内の絵図「殿堂平面図」に描かれた講堂の姿とも符合するということです。
発掘に伴って出てきたものも展示されていました。お金も!
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奈良に住み始めた30数年前のこの辺りは、松の木が多くて鬱蒼とした松林の中に講堂の礎石がありました。その後、松枯れの病気でほとんどの松が伐られ、いつの間にか桜やイロハモミジが植えられて・・・そして数年前から始まった境内整備事業でその桜の多くも伐られてしまって、随分と違った景色になって寂しさを感じておりました。
昨年の三面僧坊と今年の講堂跡の現地説明会を通して、東大寺創建当時から鎌倉時代まで、ここに僧坊も講堂もあった時代の確かな証拠を見ることができ、私の個人的な雑木林へのノスタルジックな想いを超える何かを、何かに思いを馳せることができるようになりました。
僧侶が経典の講義や説教をする場であった講堂。千人以上もの僧侶、全国から勉学のために集まった僧侶達が寝起きする場であった僧坊。
多くの僧侶がここに集い学んでいたことを歴史の事実として知っていても、実感が伴わなかったこと。
現地説明会で千年以上も前の痕跡を知ることで、僅かながらも想像の翼を広げることができたと思いました。
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帰りは大湯屋に立ち寄り大銀杏の見事な黄葉を目に焼き付けました。